[はちがつのたたかい。](1)
「……暑い……」
俺は自分の意思によってここに立っているにもかかわらず、自分のいるところが信じられなかった。
雲ひとつない青空の下、燃えるような太陽に照らされ、気温はすでに40℃を超えているだろう。
周囲には三万人を超える観衆が、水の入ったペットボトルを持ち、団扇をあおぎ、またはメガホンをならし、ある一点を見つめる。
喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、祈り、希望、羨望、さまざまな人の意思がその一点に集中する。
その視線の先の動きに観客全員がどよめき、ある者歓声を発し、またある者は嘆くことができる世界にここだけしかない神聖な場所。
『カキーン』
投手(ピッチャー)の投げた球を打者(バッター)が打ち返す音が響く。
一瞬の沈黙、すべての人が打球の行方を追う。
内野手の頭上を越える。ヒットとわかったときには歓声に球場全体が揺れる。
――8月13日阪神甲子園球場、第88回全国高等学校野球選手権大会二回戦。――
無料の外野自由席の最前列で、隣に座る高校三年生・神明みのりと共に、またも放たれた打球を目で追いながら、
俺――溝口春樹は一週間前のことを思い出していた。
8月6日午後、エアコンの効いたマンションの一室で、二人の男女が麦茶を片手にテレビを見つめていた。
全国高校野球大会の初日の第二試合、それも終盤に差し掛かっていた。
突然の発言に反発の声を上げた部屋主を「暑いから」の一言で一蹴し、強引にあがりこんで冷たい麦茶を所望した少女は、
真剣なまなざしをテレビに向けていた。
試合はすでに先攻チームの大量リードという一方的な展開になっていた。
『カキーン』
高校生とは思えない打球が飛び出し、ついに十点目のランナーが帰ってくる。
10−0。ここまで来ると後攻チームがかわいそうになってくる。
「特に野球が好きってわけじゃないけど、高校野球はなんとなく見たくなるんだよねぇ」
隣に座るみのりがしみじみとした口調で語る。
「それは夏だからか?」
「ん〜、なんていうか……」
少し考えて、
「同年代の人たちがひとつの目標に向けて頑張っているのを見ると、不思議とやる気が出てくるんだよね」
「ほう、まぁわからないでもないな」
俺も高校生のときは同じようなことを考えながら見ていた気がする。
あの若干でも輝いていたあのころの自分を思い出していると、
「……見に行こうか」
「へ?」
みのりの意味不明発言に聞き返す。
「高校野球を見に行こうか。甲子園に」
「……みのり、それは本気で言っているのか」
「当たり前でしょ」
「ということは俺が行くことは確定なのか」
「こんなか弱い乙女に一人で行けって言うの?」
「誰のどこがか弱いんだよ」
ボコッ
俺の頬に見事な横殴り右ストレートが決まった。
「……痛えな」
「お互い様よ」
どうやら芯をわずかに外したらしく、殴った本人も痛そうに手を振っている。
「で、いつ行くんだよ」
「え、連れて行ってくれるの?」
パッとみのりの目が輝く。こんなに嬉しそうな顔ははじめて見た。
「交通費は自分で払えよ」
「……ケチ」
「当たり前だろ」
拗ねた顔もかわいいもんだと思う。
「新幹線の券だけはとっといてやるよ」
「いいの?」
「金は旅行後に全額出世払いだ」
「やっぱりケチだ」
みのりの言葉を聞き流してパソコンの電源を入れる。
「それで、いつ行くんだ?」
「ここから甲子園までどれくらいかかるの?」
「ん、ちょっと待て――」
検索サイトの路線検索で検索すると、すぐに所要時間と交通費が出てくる。
「約三時間ってところか。交通費は新幹線の特別料金をいれて片道14,190円。これなら日帰りでいけるな」
「意外と近いね」
「新幹線があるからな。で、いつなら空いてる」
「基本的にヒマだけど……溝口さんは?」
「次の土日は特にすることがないな。13日でどうだ?」
「13日か……いいよ。ちょうど親も出かけてていないはずだし」
「でもいいのか、高校三年生」
俺はなんとなく一番気になっていたことを口にした。
「なにが?」
「お前、今年受験だろ。大丈夫なのか」
「だっだいじょうぶに決まってるじゃない。少なくとも溝口さんより頭はいいよ」
自信満々で答える中にも、さっきは無かった焦りが垣間見える。
「なぜそういえる」
「貴重な休日に神社でぼーっと女子高生のピアノ演奏を聴く姿には、知性のかけらも感じられないよ」
「……バイトの偽巫女に言われるとは思わなかったな」
「私もそんな簡単に認めるとは思わなかったよ」
結局、「受験生として自分を鼓舞するために、知性の無い社会人代表として甲子園に連れてけ」という強引な理由で、
13日の甲子園行きが決まったのだった。