「おい! 多奈!」
 兄の声を背中に受けて、しかし振り返りすらせずに、2メートル強の鉄格子を飛び越えた。
 焦燥感だけが頭の中を埋め尽くしていて、まともな思考なんか一切存在しないままにひたすら足を動かし続けている。
 緊急事態にしか使わないと心に決め、あの別れから封じると誓った能力。
 全てを打破するカードを、私は迷わず切っていた。
 重力加速度のほとんどを、前方へ。
 普段は全てを縛り付けているベクトルを捻じ曲げて加速。半ば地表を滑空するような、ありえない動きと速度で走っている。
 淡い霧のような青い光を放っている右腕に未だ朝刊を握り締めたままであることに気がついた。
 そう。この朝刊こそが、私の全力疾走の原因。
 黒いミディドレスの裾が翻る視界には、いつもなら絶対に見逃してしまっていたであろう地方欄の記事が焼きついている。
『千歳谷高校で女子生徒死亡』
 題字を見た瞬間背筋が凍った。そしてその女子生徒の名前を視認した直後、氷結は一気に灼熱へと変化した。
 3年C組31番、美術部員、遠野有希。
 ほんの数日前、2,3日を共にしただけの少女。
 底抜けに明るくて、この上なく元気な、伊勢崎多奈の戦友であり盟友であり親友であった少女。
 原色の空の天気雨だったあの日、記憶を抹消して、二度と会うことはないはずだった少女。
 血塗れになっても笑顔を絶やさず私の手を握ってくれた、覚悟と正義の少女。
「嘘です……有希は……絶対に……!」
 早朝だったのが幸いしたのか、人も車もほとんど見当たらない道路をただただ前進する。
 青い空を埋め尽くそうと動く暗雲が、すごく不吉だと思った。
 そんな後ろ向きな気分と不安を少しでも紛らわそうと、走って、走って、走って。
 有希と共に渡瀬市の星空を眺めた、あのベランダが見えてきた。







雲のない雨空の下で×星のない空の下で 二次創作
 
Fly together,Once more.
 

序章  伊勢崎多奈による恣意的で身勝手な賭け







 
 数日ぶりに訪れた遠野家はまるで別の場所のようだった。
 あの暖かくて優しい空気は消え去り、重い静寂だけが辺りを支配している。
 パンの香ばしい匂いもココアの甘い香りもなく、物悲しい焼香の煙だけが残っていた。
 白と黒の垂れ幕に動悸が早まる。そして同時に、目を反らす事のできない現実に打ちのめされた気がした。
「…………」
 玄関の扉の前、ドアノブに手をかけたところで私は動きを止める。否、動けなくなる。
 扉を開いて中に入らなくてはという思考と、このまま背を向けて逃げ帰ってしまいたいという思い。
 理性と感情が真逆の向きを示していた。自分の思考のベクトルだけは意識下のストッパーによってままならない、それを今ほど歯がゆく感じたことはなかっただろう。
「……有希……」
 自覚しないまま私はその名前を呟いていた。
 希(のぞみ)が有る、と書いて有希。常に前を向き、胸を張って進む彼女には、これ以上ないほどふさわしい名前だ。
 自信にあふれた笑顔を思い浮かべると、唐突に何か熱いものが込み上げてきた。グッと息が詰まる。
 と、その時。
 カチャン、と場にそぐわない軽い音が響き、目の前のドアがゆっくりと開いた。
「……多奈ちゃん?」
 わずかな驚きを見せながら、三里さんが顔を覗かせていた。


「ごめんね、伝えなくちゃと思ってたんだけど、連絡先が分からなかったから」
「いえ、私の方こそ何も言わずにいなくなってすみませんでした」
 困ったような笑みを浮かべる三里さんとテーブルを挟んで向かい合っている。湯気の立ち上るココアのカップの下、テーブルクロスにはベージュと赤茶色のシミが残ったままだった。
「うん、あれはちょっとびっくりしたわね。多奈ちゃんは戻ってこないし、有希は全身血まみれだったし、何より多奈ちゃんのことを全然覚えてなかったし」
「……はい。有希の記憶は私が消しました」
「それ、有希は納得してたの?」
「……いいえ」
 思わず少し目を伏せて、それでも何とか視線を三里さんに向ける。有希と同じ色の澄んだ瞳は、周りに涙の後と腫れがあっても尚、私の心の中まで見透かしているんじゃないかと思うほど綺麗だった。
「納得はしてくれませんでした。最後までとんでもない抵抗をされましたし。でも、了解してくれました」
 その言葉に三里さんは目を細める。
「……そっか。有希は、それだけ多奈ちゃんのことが大事だったのね」
 満足げな微笑み。でも、『大事だった』という過去形に胸が軋む。
「記憶とか思い出ってね、とっても大切なものだと思うの。出会いも、別れも、楽しい事も、悲しい事も、その人が願う限りずっと残しておけるから。有希だってそれは分かってたはず。初めてお酒を飲んだ次の日、その時の事が全然思い出せなかったらしくて『うおおおお! 昨日の幸福なあたし、カムバーック!』って絶叫してたもの」
 その光景を思い出したのか、クスリと笑いをこぼす三里さん。
 あまりにも想像が容易だ。有希のことだから、初めてなのに大量に飲んだのだろう。
 三里さんは自分のカップに口をつけると、喉を潤すようにゆっくりとコーヒーを飲み干した。
「それとね」
 静かにカップを置いた三里さんの優しい眼差しが、再び私に向けられる。
「有希は、自分の事と同じくらい友達の事も大切にしてたわ。ううん、あの子にとって友達を守るのは自分の意思を貫き通すことのひとつだったのね。きっと多奈ちゃんを忘れることが、多奈ちゃんのためにも自分のためにも必要だと思ったのよ。多奈ちゃん自身がそう考えたように。だから……」
 不意に伸びてきた三里さんの手が柔らかく頭に乗せられた。
「だからね、多奈ちゃん。そんなに自分を責めるのはやめなさい」
「……っ!?」
 思わず息を呑む。
「……べ、別に、私は……」
「慣れない嘘はやめたほうがいいわよ? 多奈ちゃんは悔やんでるわ。有希の記憶を消して、あの不思議な力を奪ってしまったことを。そうしなければ、有希は死ななかったんじゃないかって」
 ……その通りだ。私は正に三里さんが言ったままの事を考えていた。
 今は失われた私の“開花”で有希が会得した能力は、瞬時に物体を移動させるもの。加えて、彼女の反射神経や運動能力は決して低くなかった。能力さえあれば、ほぼ全ての緊急事態を回避できたはずだ。だから、それを使えなくした私が有希の未来を摘み取ってしまったのだ、と。
「それは違うわ」
 三里さんは私の髪を梳くようにゆっくりと頭を撫でながら続ける。
「私は有希に言ってきた。自分の正義を貫きなさい、そして有希が選びなさい、って。あの子はそれをしっかり守ってくれた。その時自分ができる、最も正しいと思える事を」
「それは知っています。有希は私なんかじゃ足元にも及ばないくらいの強さでスタンスを固持していました。でも……!」
「だからね。どんな選択をしたのであっても、それは有希が決めたこと。他の誰の意思にも邪魔されない、あの子の身勝手で我儘な決断なのよ。そしてその決断こそが有希なの。その道を選んだって事が、遠野有希のアイデンティティ」
 手を動かし続けながら、三里さんは悪戯っぽく笑う。
「多奈ちゃんが責任を背負ったら、有希が有希でなくなっちゃうでしょう? あの子をずっと、遠野有希のままでいさせてあげて欲しいな」
 その笑顔が、私にはとても淋しそうに見えた。


「長話になっちゃってごめんね。私もそろそろ歳かしら」
 およそ本気でない口調で言いながら三里さんは席を立つ。
「それじゃ、多奈ちゃん。有希に顔を見せてあげて」
「……はい」
 促されるまま、私は隣の部屋に足を踏み入れた。香の匂いが一層強くなる。
「ほら有希、多奈ちゃんが来てくれたわよ」
 有希の満面の笑み、沢山の白い花に彩られた遺影の前に腰を下ろした。一段高いところに、真新しい木棺が横になっている。皮肉にも私の黒一色の服装はこの場に見合いすぎていた。
「……三里さん、あの後、有希に私の事は……」
「言ってないし、そもそも言う時間がなかったわ。血だらけで帰ってきて、シャワー浴びて、朝ご飯掻き込んで、まともに会話する暇なく飛び出して行っちゃったから。……それで、あの日の夕方だったのよ」
 何が、なんて訊くまでもない。つまりは私と別れてから半日も経っていなかった、そういう事だ。
 ゆっくりと焼香をして、目を瞑る。隣で三里さんも手を合わせる気配がした。
 十数秒の沈黙。
 目蓋を開く。三里さんは未だ合掌をして目を閉じたままだ。
 私はその肩に優しく右手を乗せた。
「三里さん、ちょっと眠っていてもらえますか」
「え?」
 どういう事、という口の動きが音になる前に、私の右腕は青い光を纏っていた。
 起きていようとする意思のベクトルを反転。
 すぐに静かな寝息を立て始めた三里さんに心の中で謝罪してから、視線を再び前へと向けた。
 有希の死。
 それを目の当たりにしながらも、私はまだ一滴も涙を零していない。
 崩壊寸前だった私の精神バランスの生命線。その鍵は、私と有希を巡り合わせたこの右腕にある。
 ダイニングキッチンで三里さんの話を聞きながら、意識の片隅には一つの考えが浮かんでいたのだ。
 私の能力は、ベクトルの操作。
 物理現象にかかわらず、全ての事象の「向き」を変更することができる。
 それならば。
 「死」という行動のベクトルを反転させることができるならば。
 私は、有希を蘇らせる事ができるかもしれない。
 これは賭け。理論上問題は無くても、生命の禁忌に抵触するハイリスクなギャンブルだ。
 ――それでも、有希。
「私は、貴方を失いたくありません……!」
 棺に添えた右腕から、視界を埋め尽くす勢いで青い光が迸った。




「逃げるよ!」
 焦っていて、でもどこか楽しげだった。

「ただ、仲良くなりたいだけだから」
 すごく柔らかい、優しい笑みだった。

「面白いから問題なし!」
 まるで雄叫びか、さもなくば高笑いのようだった。

「多奈を返してもらうっ!」
 決意と覚悟と、気迫の宣言だった。




 有希の声が、表情が、動きが、リフレインしては消えていく。




「多奈。……ばいばい。また会おうね」




 再会を誓う、有希の笑顔。




「有希……その言葉、信じてますよ!」

 そして私の意識は、
 光の奔流に飲み込まれた。





【続く】





原作「雲のない雨空の下で」「星のない空の下で」 by 吉村麻之/でばーー様(http://mukiryokukan.sakura.ne.jp/)

Written by 十六夜(http://www.geocities.jp/mail_izayoi/)