雲のない雨空の下で・異次元伝 〜ゆきさんとウィンチェスターたえ子・そして苦労性の一穂〜
追われている。だから、逃げている。 状況はどこまでもシンプルで、行動はどこまでも緊迫していた。
……だというのに。 「……茶、ウマー」 助手席の少女は、シートの上にさらに敷いた座布団に正座で座り、『汁』と書かれた湯呑みに入った熱々の緑茶を飲んでまったりしている。 全身黒で包まれたその姿を「西洋童話の魔女みたい」と誰が言ったか知らないが、この緊張感のない少女……我が妹の行動は明らかに日本のご老体そのものである。 「逃げる必要あるんスか? なんなら私が奴らをまとめてコキャッと……」 「「「コキャッ!?」」」 おまけに、見かけのまったりっぷりとは裏腹にやるときは徹底的にやる奴だ。曰く、『中途半端が一番だるいッス』だそうだが。 なので、妹以外の俺を含む男3人はしばしばその発言に度肝を抜かれたりする。とりあえず制止しなければ。 「たえ子。逃げるってのが最良の選択肢なんだ。確かにお前なら後ろの車を数秒でコマ斬りにすることも出来るに違いない。……けれども、逃げる。俺らもあいつらも無事、それがベストだ。」 頷く。そして、興味を失ったかのように茶を飲む。
「……茶、ウマー」 育て方を間違えただろうか。
その後怒涛の右折左折乱舞の末、追っ手を巻く事に成功する。 バックミラーを見て、我が妹……たえ子は運転手の俺に告げた。 「兄者。とりあえずは退けたみたいッス」 ……いつからだろう、可愛い妹が自分を『兄者』と呼ぶようになり、語尾に『ッス』を欠かさなくなったのは。 俺は無意識に眠気覚ましのガムを取り出し、噛むことに集中してそのやるせない気持ちをごまかした。
……その時。 『飛び出し注意』と書かれた看板の裏から、人影が現れる。 反射的にブレーキペダルを踏むが、進行方向に立ちすくむ人影――たえ子と同年代の少女――に衝突することは避けられないと思った。 こんな時こそたえ子の能力が……という案が脳裏をよぎると同時に、
のん気に茶をすする音が耳をかすめる。 こいつ、ダメだ……! たぶん、まったりしすぎて気付いてねぇ!! 思考を絶望が支配する。 そして、少女の悲鳴が―― 「ゆきちゃんキーーーーック!!」 ……悲鳴というより雄叫びだったような、と思ったときには、フロントガラス越しの景色が目まぐるしく縦回転していた。 車が『蹴り上げられた』のだということに気付くのは、もっと後の話だった。
これは、茶と、暴力と、足蹴りの物語だ。 もしかしたら、ひたすら「茶、ウマー」と言い続けるだけの話かもしれないし、少しだけ皮肉的な、ありふれたパロディなのかもしれない。
これは、茶と、暴力と、足蹴りの物語だ。 そして、きっと。俺の壮絶な苦労話でもある。(by伊勢崎一穂)
続く? |