十一月の空 〜 全てある虹空の下で |
|
亜紗 |
|
警告 | |
|
|
始まりは、実にありきたりな事だった。給料日前だった兄は隣町で行われる激安バーゲンセールに惹かれ、侘しい食事を少しでも豪華にしようと昼から出掛けていく事にした。そして、「二人で並べば卵が二パック買える」という実に所帯臭い理由で私を連れ回した。 別に、嫌だった訳じゃない。むしろ、そうやって少しでも私を一人にさせない兄に感謝しているくらいだった。 ――それと同じくらい、私を一人にさせるのも兄さんの特徴だけど。 始まりは、実にありきたりな事だった。給料日前だった兄が走らせる黒のセダンは、規制速度を十キロほどオーバーさせ、それでも警察に捕まらない程度の速さで大通りを駆けていく。 私は正しい自動車の計器の読み方なんて知らなかった。だからその針はEに近いのが正常なのだろうと思っていた。もちろん、終始その事を口にしなかった。 後悔は先に立たないと、じきに私も兄も思い知る。 十一月十日。昼下がりの大通り。時速六十キロを保っていたセダンが勢いを消していく。 ――――人はこれを、『ガス欠』と呼ぶ。 ‡ ‡ ‡ 「兄さん。どうするんですか、これ」 兄はハンドルの上で突っ伏していた。肩と背筋の力は完全に失われ、時折小さく、しかし長い長いため息をついていた。今にも垂れ線が下がってきそうなほどの落ち込みようだった。 道の脇に止められた兄の愛車。ステータス、ガス欠。別にタイヤがパンクした訳でもボンネットから煙を吹いている訳でもないので、軽症と言えば軽症だけれど、兄は十分重症だった。 「あの、よければ、私が――」 「――いい。止めとけ」 ニュアンスだけで伝わる言葉を即座に遮られる。兄は、私が普通じゃない事をしようとするのを非常に嫌っている。兄の前で私がそれをした事は、一体どれほどあっただろうか。最後に私が兄の前で普通らしくない事をしたのは、数えるのも困難なほど、そして思い出すのも遠い昔の出来事だったように思える。 ――でも、私はそれが嫌いじゃない。 「多奈。もしもガソリンスタンドにガス欠の車が普通に走ってきたらどう思う? 『あれ? この車ガス欠ですよね?』とか聞かれたら俺はどうすりゃいいんだ? いいか。俺たちは普通の買い物帰り。普通の普通の金のない、ちょっと間抜けな一般市民だ。だから今から誰かにガソリン持ってきてもらう。それまで暇だからどっか行ってろ」 ――こうやって、私を普通扱いしてくれるのだから。 兄のそういう言葉が心地良かった。だがそれも次の一言で一蹴される事になる。 「あー、クソ。今日は帰ったら『イニシャルB・J』があるってのに……」 そして今までで一番大きなため息をつく兄。どうやら兄は劇安の野菜の鮮度とか、殻に包まれている割に脆い卵とか、私が小さな幸せに浸っている事とかよりも、夕方六時に始まるテレビ番組の方が大切だったらしい。 ちなみに『イニシャルB・J』とは、超人的な技術を持つ医師B・Jが、ある日突然幼い頃の夢『走り屋』を目指すために、夜の首都高を地元の暴走族と共に時速百三十キロでチキンレースをするという話だ。兄は原作の漫画よりも、今やっているドラマ版の方が好きらしい。兄と同じ血を引く私は、残念ながらその作品に素晴らしさを微塵も感じていない。 兄は右手で胸ポケットから携帯電話を取り出そうとしている。同時に左手でしっしっと私をあしらおうとする。 私はドアを開けた。兄のあしらいに負けたとか、待つのは暇だからとか、そういう気持ちは一切ない。 ――兄がああ言って無理矢理にでも私を一人にさせる理由を、私は知っている。 名も知らぬ町。次に通るのはいつになるかも分からない、長い長い大通り。私は歩道まで歩いていく。 「一時間か二時間したら帰って来いよー」 兄の叫ぶ声が聞こえる。肌寒い風が頬を撫でた。 ――私に普通の友達が出来るようにと。私が一般人らしく振舞えるようにと思って一人にさせている事に、私は気付いている。それを、兄はきっと知らない。 空が青い。いい天気だった。 「あなたの気遣いに感謝します」 十一月の空に、私の呟きが掻き消えた。 ‡ ‡ ‡ 私が一人で外を歩く時、多かれ少なかれ大抵理由が付きまとっている。時には買い物のためだったり、時には戦いのためだったりする。だから私は、『一時間ないし二時間の間、どこかで時間を潰してくる』という、素晴らしく空しい理由に納得がいかなかった。裏では『友達作り』という真っ当な目的が隠れているのだけれど――。 ――そんなの、無理に決まっている。 理由なんてない、経験からだけの結論。『これまで』が私に押し付ける当然で絶対の理。そこには『これから』が抜けていた。そんな絶望感は昔っからお断りだったというのに、いつしか私はそれを受け入れている。受け入れざるを得ない、そんな『これまで』だった。 努力しなかった訳じゃない。だけど結果が付いてこなかった。そして結果が付いてこなければ、『友達』なんて呼べる物が出来るはずがないのは明白だった。 ――兄の心遣いは、とても嬉しい。それだけで満足出来るくらい。 だから私は、その裏に隠されている思いを成就させず、今の駄目な私を続けているのかもしれない。 ――無限の悪循環。今日もその輪の中で私は生き続ける――。 私は歩いた。何も買う気もない商店街の中を、立ち止まるはずのない公園の前を、行く事のなかった学校の前を、住宅街の中を。 晴れていて、太陽がさんさんと輝いていたが、暦はすでに十一月。梅雨の頃のじめじめとした感触は記憶の彼方へ、夏の頃の汗が止まらない灼熱の日差しはとうに薄れ、冷たく乾いた北風が私を包んでいた。ショートボレロとミディドレスを貫く秋風だけが私の友達のように思えた。 その友達が、私の耳にピアノの音色を運んだ。 注意しないと聞こえないくらいの小さな音色。美しく優しい弦の調べが、どこからともなく聞こえてきた。 髪をかき上げ、辺りを見回した。それは住宅街の真ん中から聞こえてくるようだった。 ――どこかの部屋で誰かが弾いてるのかも。 理由なんてなかった。演奏がする場所へ行く事にも、この時間潰しにも。 私は自然と、歩みを進めていた。 ‡ ‡ ‡ 空が青いのはなんでもない出来事だ。風が冷たいのも秋だから当然だ。私が歩くのも人間だから当然だ。そして。 「四階とか五階とかの部屋から流れ出てたらどうしようかと思ったけど」 気付けば『神明神社』と大きく書かれた鳥居の前、そして音色が大きくなる場所に私は佇んでいた。こんな平和な昼下がりに、用もなく神社へ訪れるのは……、果たして普通なのかどうか。ただ、暇人という名の烙印を押されているかのようだった。 ――兄さん、ごめんなさい。伊勢崎多奈は今日も一人で、普通じゃない日常を過ごしています。 本当に優しい兄の不器用な優しさを張り倒し、私は鳥居をくぐった。 そう長くない石段を登れば、割と広い敷地が見えた。小奇麗な拝殿と傍にそびえる大きな木を見た時、神社とか寺には百段を越える階段があるという私の妄想は、儚くも脆く砕け散っていた。 くるりくるくる舞う木の葉、地面に大量に降り積もる。その広い敷地内にゴミはない。 鍵盤の音色は拝殿の中から聞こえる。優しい演奏につられ、私は歩いて行った。 昼下がりの肌寒い空気の中、社殿で一人の女性がピアノを弾いていた。優しさと楽しさと、一摘みの物悲しさを織り合わせたような、そんなベクトルを持つ曲だった。 境内まで歩いて来た私に、彼女は気付いていない。私と同年代くらいの、緑色の、多分学校の制服を着た女性。目を瞑り、指先から流れ出る音色を楽しむかのように、その唇は綻んでいた。 ――綺麗だ。 そう思えた。たった一人の演奏、たった一人でいるというのに、どうしてそこまで楽しそうに出来るのだろう。 一人という共通点。重ならないビジョン。……小さな嫉妬心。 けれどその心をくすぶる思いは、秋の空の下で行われるソロライブに掻き消されていった。 私は格子戸をそっと閉め、境内の石段に腰を下ろした。 ‡ ‡ ‡ そして、長い時が流れた。具体的には名前も知らないクラシカルな曲、三曲分くらい。 昼下がりの太陽はどんどん高さを下げていき、空はその蒼さを深めていく。雲は傾いた日差しに黄色く色を変え、弱くなった太陽光により風の冷たさは一層増していく。影が伸び始め、音色と共に木の葉が舞う。 とても平和な時間だった。こうしてぼーっとする時間が、今まで私にあっただろうか。多分、ない。あったかもしれない、けれど思い出せない。 小さな苦悩が脳裏をよぎる。 何も考えず、気付かれてはいないにしろ、こうして誰かの傍に居続けた事があっただろうか。 首は横に振るばかり。 淀んだ環境が私を包む中、こんなにも世界は平和なんだって思えた事が、果たして今までにあっただろうか。 誰も答えてはくれない。 そんな私の悩みを、まるでちっぽけな事だと言うように境内を舞い続ける音色が語り掛ける。 ――今がある。今は、ある。今、出来たのだと。 時間はただただ流れていく。優しく楽しく少しだけ悲哀を感じさせるその調べによって。 ‡ ‡ ‡ 四曲目が終わった後、流れるように五曲目は開始されなかった。代わりに聞こえてきたのは格子戸の開く音。私はワンテンポ遅れて振り向いた。 「わっ……!」 その華麗な演奏者は間抜けなほど口を開き、予想もしていなかったであろう観客の存在に、見るも分かりやすく驚いていた。そしてこれが、私の去り時なのだろうとも思った。だから――。 ぱちぱちぱちぱち。 ――手を、叩いていた。たった一人でする拍手は、小さく、けれど温かい賞賛を伝えていた、と思いたい。 「……へ? へ?」 困惑する奏者。同時に立ち上がる私。 「それでは」 「へ? あ? ちょっと?」 カッコよく立ち去るべく静かに歩き出そうとした時、私は肩をがしっと掴まれた。前進しようとする向きと急激に止められた速度で転びそうになるが、そんなアホな展開には至らない。至らせない。踏み止め、振り向いた。 「あー、もしかして聞いてました?」 強引に私を引き止めて、当然の事を確認して来た。あまりに当たり前の事だったので私はこくんと頷いていた。 「あははー。そう、ありがと。誰かが聴いてるなんて久しぶりだったから、ちょっと驚いちゃったけど、ごめんね」 その新緑の香りを彷彿させる清々しい笑顔に、私は躊躇いがちに「いえ……」と答えていた。戸惑っているのは彼女の方なのに、私の方がよっぽど戸惑っているような返事をしているのが、少しだけ可笑しい。そして当の本人は、私なんかの言葉に照れているのか、頬が少しだけ赤い。 「それに拍手貰うのも、もう……。そっか、半年ぶりかー。早いねー」 何が早いのか私は分からない。だけど彼女は笑顔を浮かべて物思いに耽っていた。少しだけ、遠い目をしながら。 「あの、その、……いい演奏でした。それじゃ」 感想と別れの言葉を言うだけ言って、すぐさま逃げるように歩き出そうとする私。そしてその歩みは、またしても素敵な演奏者によって止められた。今度は両肩を掴まれて。さらに流れ技として腕を首に巻かれてしまった。 ――無理矢理外す事は、私にとってはなんて事はない。たとえ大男に同じ事をされたとしても。 「まあまあ。『いい演奏』なんて言われるのもまたひっさびさでさー。そういう事を言ってくれる素敵な観客様には、ちゃんとアンコールをお届けしろって、この神明神社の神様が言ってるのよ。だからもうちょっと聴いていきなさい。下手な演奏で悪いけど」 だというのに、私はこの妙な演奏者の言いなりになっていた。肌に触れた制服の感触が心地良かった。 「え、と。…………それじゃ、もう少し、だけ」 「よし、来た。じゃあここに座っていきなさい。でも、誰かさんみたいに寝ないように。あ、格子戸開けとくけどあんまりこっち見ないでね。私、演奏中ノリノリで、見られるとちょっと恥ずかしいから」 その誰かさんというのを私は知らない。でも、この観客思いな演奏者は笑顔でそう言っていたのだから、きっとちょっと失礼なだけのいい人なんだろうと思った。 「えーと、何かリクエストある? レパートリーは少ないんだけどね」 「いえ、何でも構いません」 私のその言葉は、聞く人が聞けば失礼な奴だと思ったかもしれない。だけれどこの奏者は、「よし、それじゃ神明スペシャルで」と言って、間髪入れずにピアノを弾き始めた。ファミレスのメニューみたいな名前だと思ったのは、ここだけの秘密だ。 優しく楽しい音色が空へと舞い上がる。そこに物悲しさは一切入っていなかった。代わりに、懐かしさを感じたのは気のせいか。 秋風のフルートと木の葉のタンバリンがバックサイドを担当して、紅く染まり始めた空のライトを一身に受けながら、小さな小さなソロライブが再開した。 ‡ ‡ ‡ 「そこの石段ってさ、特等席なんだよ。今年の五月にさ、今のあなたみたいにそこの石段に座って、私のピアノを毎日のように聴きに来てくれた人がいたの。ゴールデンウィークもほとんどいたんだよ? 暇人だよねー」 拝殿に背を向け、空を眺める私へ独り事のように語り掛けてくる演奏者。喋っていても、そのピアノの腕は落ちていない。とても、自称下手だとは思えなかった。 優しい音階が閑散とした敷地に広がる。 「朝から八個も食べたっていうのに柏餅持ってきたりさー、買い物行ってばったり会ったりさー、もうホント変な腐れ縁みたいなのがあって。大変だったよ」 笑ってそう言う。大変だった、という部分以外。少しだけ哀愁を感じた。 冷たく吹き抜ける風が、私の髪を払っていった。 「そこの石段に座ってバッカな話したり、お茶飲んだり、時々ネガティブな話持って来たり……。とにかく変な人だったんだよ」 その言葉は私に聞かせているのか、それともそれは名目で、何か、別の真意があるのか。会話出来そうにない言葉を、演奏者は思い出すように紡いでいく。 ピアノのテンポが上がり、風が強くなるにつれ、木の葉の落ちていく量も増えていく。互いに擦れ会う音が微かに聞こえた。 「時々せっかく人がピアノを弾いてやってるっていうのにいつの間にか寝こけてるし。……まあ、ちゃんと起こしてやったけどね」 カラカラと笑う伴奏者。その声に優しさはこもっていない気がした。 『神明スペシャル』とやらはどんどんテンポを上げていく。高音の優しくも寂しい感じと低音の重たく苦しい感じが交差する。 「その人さ、休みになったら毎日毎日毎日毎日来たっていうのに、突然ばったり来なくなっちゃったんだよ。なんか拍子抜けでしょ」 それは、問い掛けなのか、それとも確認なのか分からない奏者の言葉に、私は何も言い返せないでいる。ただただ私は黙って、石段の上に座っていた。 ただ、ピアノの音が優しくて、懐かしくて――。 「…………転勤。研修生だったんだ。その人」 ――悲しかった。 「食べ切れないほど柏餅持って来て、人が一生懸命掃除したりピアノ弾いてやったりしている傍で眠ったり、迷惑な重ぐらーい話しに来た迷惑な観客さんはさ、私のささやかな楽しみを作って、壊して、いなくなっちゃったんだ。最後まで、迷惑だよね」 重く暗く、鍵盤は響く。引き裂けるような高音が叫んでいる。それでも、その演奏者は声色を変えていなかった。 ――ああ、この人はきっと後悔しているのだろう。 「さっき、格子戸閉まってなかったよなーとか思ってさ、あのちょっとだけはた迷惑なお客さんが帰ってきたのかと思っちゃった。さては私が戸開いた時、脅かそうとしてるなーとかも思ってたんだ。子供っぽい所あるからさ、あの人」 それは、悔恨。言うまでもなく、悔しがっていた。だというのに、この人はまったく口調を変えない。むしろ、抑揚がなくなっている気がする。 そんな建前を裏切るように、聞く人が聞けば叫ぶようにピアノが哭く。 ――優しい思い出の中で生きる人が、いなくなる気持ちなんて私は知らない。 「もう来れないとか言った後にはまた来るとかいう変な人でさ。最近、ホント馬鹿みたいにメール送って来るんだよ。忘れられないのかな。返事書いた事ないけど、そんな事されたらこっちだって忘れられないよね」 奏者は静かに、静かに当たり前の口調で叫ぶ。風が、木の葉が、ピアノが、空の色が、影の長ささえもが泣いていた。 ――だけど、この人の言う言葉の一々は。 「そこはさ、特別席だから。暇人で、子供っぽくて、迷惑で、ピアノを褒めてくれて、四回奢ってくれて、いつ帰ってくるのかも分からない、愚痴を聞いてくれる人がいた、特別席だから」 演奏はクライマックスを迎える。最後の鍵盤の音が、世界に染み渡った。 「…………ごめんね。問答無用で愚痴聞かせて」 奏者の最後の言葉も、余韻となって響き渡った。 ――そんな淡い友情なんて、微塵も知らない私にも分かるほど。 ――――寂しい方向を持つその流れが、悲しいくらいに速過ぎた。 ‡ ‡ ‡ 重たい椅子の擦れる音がして、演奏者は椅子から降りた。私一人の拍手の中、やはり笑顔で戻ってきた。 「素敵な演奏でした」 私の言葉を笑って受ける。その顔に今度は照れも何もなかった。 「ちょっとだけ、あなたとあの人重ねちゃった。ごめんね」 そう、微笑みながら謝ってくる演奏者。そんな風に、優しい謝りをされた経験は、私にはなかった。柔らかく温かい物が私の胸に広がった。 ――正直、この感覚を何だというのか分からない。 「名前も知らないような人に言っちゃう話じゃないけどさ、そこに座られて拍手してくれると、やっぱりなんか頼っちゃうんだよね。あ、そう言えばまだ名乗ってなかったっけ。私は――」 「そんな事より」 私は奏者の言葉を遮るように、右手をすっと差し出した。 「お、何? 握手?」 笑顔で聞き返してくる奏者。その問いに私は、「ええ、素敵な演奏を聞かせていただいたお礼と、場所代です」と答えていた。はは、と笑ってくれた。 ――こうして私はまた、兄の言う『普通』とは掛け離れていくのだろう。 アイコンタクト。手を取り、硬く、握手をした。 「願わくば……」 私の呟きに首を傾げる演奏者。それでも彼女は笑っていた。 「彼女に……」 その止まらない笑顔に、生命力溢れる人だと思った。 ――兄さん、ごめんなさい。伊勢崎多奈は今日も、勝手に自分で自分を普通じゃなくしています。 ――彼女は知らない。 「幸せな……」 ――流れと、笑顔で始まる再会の向きが――。 「……ありますように」 ――言葉の空白に、私がそう思っていた事を。 ‡ ‡ ‡ 彼女は終始笑顔だった。目を閉じ、「ありがとう」と言うと、また開いた。 これで、心置きなく別れられそうだった。振り返り、歩き出そうとした。 「まーあ待て待て」 がしっと首に腕が巻き付いた。三度目の正直というのは嘘だ。私はこの言葉を今後一生信じないんだろうなと思った。 崩したバランスを何とか直し、演奏を終えた演奏者が口を開くのを待った。 「そんな可愛らしいカーテンコールをしてくれる人には、ちゃーんとアンコールをしないとね」 どうやら、もう一曲弾いてくれるようだった。私は素直に嬉しいと思えた。 「あなたの心遣いに感謝します」 私は遠回しにイエスと答え、首に回した腕を解放してもらった。ピアノに向かう彼女の顔は、今までで一番綺麗な笑顔だと思った。 「よーし、私、奮発しちゃうからねー。曲、何がいい?」 重い椅子をずらし、ちょこんと座る彼女は私にそう聞いて来た。 影が濃くなり、世界は宵闇の時間を迎えようとしている。太陽はなおも沈み、世界を黄昏色へと衣替えさせていく。 「え、と。……な、何でも」 こんな雰囲気の中でも、私は弾きがいを失くすような事しか言えないんだな、と自分でそう思う。それでも、その演奏者はカラカラと笑っていた。 「ははは。そんな所も、あの人にそっくり」 そう言って、彼女は鍵盤を鳴らし始めた。楽しげで、抑揚があって、悲しげの欠片もないアップテンポな曲が始まった。 「これはね。私の学校の校歌なの。歌っても何にも楽しくないのに、弾けばなんとなく楽しく聴こえちゃうっていう変な曲。ま、入学式くらいにしか弾かれないけどね」 石段に座り、拝殿に背を向ける私に、華麗な演奏者はそう語り掛けてきた。 空は太陽に近付けば近付くほど赤く、そして遠ざかれば黄色に、うっすらと緑に紫に、水色青色紺色というグラデーションを描いていた。それはまるで、大空一帯を埋め尽くす巨大な虹のようだった。 真っ赤な空の中心には真紅に染まった太陽。その影響を受け、地面が、木が、建物が、遥か上空の雲さえもが、赤く染め上げられていく。暗く青い空の彼方には、白い上弦の月が静かに昇っていた。黄色い空の向こうには、きらきら輝く一番星。 その大空一帯に広がる数多の天体と現象が、私たち二人のコンサート会場で行われた、小さなアンコールソングを聴いていた。 その短い校歌を弾き終わり、私が拍手をするよりも早く、演奏者は二曲目を弾き始めた。叩くために上げた手を、再び膝の上へと戻す。ついでに視線も空へと戻す。 二曲目はどこかで聞いた事があるような、緩やかで、静かで、どこか、悲しさを持った曲だった。 「これはさ、ハッペルベルのカノンっていうの。卒業式の定番の奴。ピアノソロだとちょっと物足りないけどね」 卒業式。それは、私が結局一度も経験した事のない行事だった。思い返せば、入学式も。 ――それを知っている彼女が、少しだけ羨ましい。 そんな事を考えていた私の心は、嫉妬心も湧き起こらず、どこまでもどこまでも静かだった。 二曲目は、そこそこ長かった。最初に弾かれた旋律を後から追い掛けるように弾かれていく、一人で行う二つの演奏。別段高すぎる音を奏でる事もなく、低すぎる音も出さず、静かで静かな曲だった。 赤く染まった木の葉の音も、吹きぬけていく風の声も、ピアノの調べと共に大人しくなっていく気がする。カノンの旋律が起こした向きに、世界が静寂という流れを持っていた。 空にはいずれ沈んでしまう真っ赤な太陽、赤く染まった雲、日光に負けて薄く白く輝く月、一番星、七色の夕暮れ。その一つ一つはぜんぜん大した事じゃない、いつでも見られる光景だろう。だが、今はこの空に、校歌とカノンが舞い上がるこの空に、その全てが集結していた。 それはまるで、私がこうして誰かとかかわれるようになった事を、喜んでいるかのように。 それはまるで、彼女がこうしてこの場所で、また誰かにピアノを聴かせる事が出来たのを、喜んでいるかのように。 「珍しい観客さんに、素晴らしい出会いと、納得のいくお別れが訪れますように、と」 十一月の空、全てある虹空の下で、余韻を残す鍵盤と、彼女の祈りが響き渡った。 ――彼女は知らない。 「あなたの祝福に感謝します」 私の拍手代わりの言葉が、静寂を守る世界に染み込んだ。 ――握手の時、私の右腕が淡く輝いていた事を。 ‡ ‡ ‡ しんと静まり返った神社に、彼女の持っていた携帯電話が鳴り響いた。そしてすぐさま帰る事になった演奏者。同時に、私は兄の事をすっかりと忘れ、急いであの道の脇へと走って行った。 私を視認した瞬間、兄は当然の行動に出た。 「多奈! 遅い!」 怒鳴られた。ガス欠はとうに直っているのだろう。 ――痺れを切らしたのならさっさと帰ってしまえばいいのに。私はすぐにでも追いつけるのだから。 車に乗り込み、法定速度を二十キロほどオーバーさせたスピードで走る兄。私が思った事を言うと、視線を変えずにデコピンされた。後から思えば、それはきっと凄い技だったんだろうと思う。 「馬鹿、俺が多奈を置いて行く訳ないだろっ!」 それは私の普通じゃなさが心配だからではなくて、私だから置いて行けないんだろうと、私は素直にそう思う事にした。心が少しだけ温かくなった。 車の速度と夕暮れの勢いが増し、辺りはすっかりと暗くなった。同時に、あの神社も、近くに住んでいるであろう彼女とも、セダンに乗った私から離れていく。大急ぎで帰る、そのスピードで。 少し、胸がちくりと痛んだ。 ――この痛みが何なのか、私には分からない。 結局名前も分からなかったけど、いい思い出が出来た。私はこの気持ちを一生大事にして生きるのだろう。 警察に見つかれば、間違いなく捕まる運転をしている兄を見る。あの素敵な演奏者に出会わせてくれたのは、突き詰めていくと兄の気遣いと、少しお馬鹿なガス欠だった。 ――友達を作る事に努力して、結局一人も作れていないのは私のせいだ。 夜の闇にレッドランプがともる。それが信号機だと確認したのは、真下を突っ走った瞬間だった。兄はちょっとイニシャルB・Jの見過ぎだと思う。もっとも、あれは首都高を走る話だけれど。 ――そして、友達を作るチャンスを与えてくれて、私にこんな淡い思いを抱かせてくれたのは、兄のおかげだ。 対向車がどんどん過ぎていく。激突すれば、およそ百四十キロくらいのエネルギーが発生するだろう。三車線に感謝したい。 ――彼女は、こんな風に大爆走した経験があるだろうか。いや、きっと、ない。 家路を急ぐ黒のセダン。その中には、ドラマも真っ青な運転をする伊勢崎一穂と、ちょっぴり幸せな気分に浸っている伊勢崎多奈が乗っている事を、この町の住民は誰も知らない。 「……兄さん。ありがとう」 そして、私の感謝の言葉が全開の窓から入ってくる爆音に消されていった事も、また誰も知らない。 ‡ ‡ ‡ あの日から、ちょうど二週間が過ぎた。あの緑色の可愛い制服を着た彼女は元気だろうか。少なくとも、私は今も元気だ。 「しっかし、一体何だったんだか、あの連中。いきなり私を轢きそうになったら車はぶっ飛ぶし、一回転して着地するし。しかもいきなり、『無事に帰さないぜ』って!」 「えーと……」 そんな私は今、左手を掴まれて謎のハイテンションガールに連れ回されている。これを元気と言わずに何と言うのか。 「特に運転手っぽいのが一番悪者っぽかったよねー。何ていうかさ、笑顔で人を殴れるタイプだよ、アイツ」 その無害な笑顔からは思いも付かない暴言が、僅かに微笑んでいる私の耳に飛び込んだ。 ――ちょっと待って。それは大きな誤解をしている。少なくとも、兄はそんな人じゃない。 「あ、あの、すいません……」 私は躊躇いがちに、そのマシンガントークを止める試みをしてみた。「ん?」と呟いた彼女は、笑顔のまま、その言葉の波を停止してくれた。良かった、成功だ。 ――あの神社で出会った彼女の祝福が、関係しているのかどうかは分からない。私と違って、彼女はどこまでも『一般人』なんだから。 マシンガントークを止めたはいいが、果たしてどう言ったものか。伝わるか分からないけど、とにかく言うだけ言ってみよう。 ――でも私は、あの素敵な演奏者の祈りが、天に届いたと思う事にしよう。 だって私は――。 ――彼女の言葉通り、こんなにも『素晴らしい出会い』に巡り会えたのだから。 「……その人、私の兄です」 秋風舞う歩道に、ハイテンションガールの土下座が炸裂した。 十一月二十四日。昼。そう、あれからちょうど二週間後の事だった。 |